平和主義な人
気がつくと、もう5日ほど過ぎていました。日が過ぎるのが早いですね。
今日は平和主義な人は、好戦的な人を引き寄せる、についてお話しします。
私は自分のことを平和主義とは思ってはいませんが、喧嘩がきらい、とか揉め事が嫌いなタイプなので、平和主義的なのかも知れません。加えて困ったことに、競争するのが嫌いなのです。
以前、友達に誘われてスポーツのサークルに入ったことがありました。スポーツが嫌いではないのでそれなりに楽しんでいたのですが、ある時バスケットボールのような競技で、ひとつのボールを10人ほどで追いかけて取り合う競技がありました。
一度は参加してみたものの、一つの物をみんなが追いかけるエネルギーについていけなくて「こりゃダメだ」と思い、すぐ離脱して見学組になりました。
子供の頃から全エネルギーを注いで競うとなると、すぐに諦めてしまう根性のない私でした。そこに全エネルギーを注ぐ意義を見出せない子供でした。
万事がそんな私でしたから、人とのつきあいでも勝気な人と接すると、いつもピシャっとやられっぱなしでした。私は決して大人しいタイプではないのですが、揉め事が嫌いなので、当たらず触らずその場を収めていたようです。そこにエネルギーを使いたくないのです。
後年、平和主義的な私に、好戦的な人が寄って来やすいということを知りました。このことについてはいずれ機会があれば綴りたいと思います。
本題はここからです。
好戦的な人が寄ってくるタイプの人は、どうすれば寄ってこなくなるか、です。
難しいかも知れませんが、「波動」を上げることです。
わかりやすく言えば、人格を上げる、魂を磨く、ということです。
波動を上げれば、自ずと好戦的な人と関わらなくなります。
もし平和主義的で、同じような経験をされている方がいれば、生き方の改善の参考になれば幸いです。
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今日はお知らせがあります。
私は以前からイラストレーターになる夢をもっていました。
ずっとその準備をしていましたが、やっとその夢が叶いそうです。今、全力を注いで事にあたっています。そのためブログを書く余裕がなさそうです。ですので、しばらくお休みすることにしました。いつ再開するかはわかりませんが、その時まで皆さんお元気でお過ごしくださいね。ありがとうございました!🙇♂️
おじさんと呼ばないで
私が去年まで勤めていた会社にいた頃の話です。
私がいた部署には、どちらかと言うとボス肌の女性が二人いました。厳しくもザックリしたところのある二人です。
その二人の会話が時々聞こえてくるのですが、おそろしく毒のある会話なのです。多分、半分はジョーク、半分は本音なのでしょう。聞いている者にとっては
「ひぇ~、こわいよー」
となるわけです。あまりお近づきにはなりたくないタイプに見えます。
その二人はお互いを、大きいおじさん(体が)、小さいおじさん(体が)と時々呼び合っていました。その理由は、お互いが毒人間と認め合っての呼称のようです(こんなことを言っていると世間のおじさんに怒られそうです、すみません)
そんなある日、小さいおじさん(失礼)が私に向かって
「むつかさんって毒吐くよね~」
と言うのです。「えっ???」と私は驚きました。私には自分が毒を吐いているという自覚がまったくありません。
私は見たまま、感じたままをやんわりと言うタイプだと思っていましたが、よく考えると私の心の中には「ふざけて楽しみたい」と言う気持ちがあり、相手とその会話に乗じてついありのままを冗談で毒?なるものに変換しているようです。悪気はまったくないのですが。
これだけで私と言う人間に、傷つき腹を立てる人もいたと思います。
傷つけた人には、ごめんなさいとあやまるしかありません。
しかし、女性のおじさん二人は私のことを同類のにおいがしたらしく、親しみを込めて
「おじさ~ん」と呼んでくるのです。
私は「違う~」と抵抗するのですが、こうやって受け入れてくれているんだと思えば、それもありかな、としぶしぶ、まさかの「おじさん」呼称を受け入れました。
このように、普段から自分が思っている自分と、他人が思っている自分の差は意外とあるのかもしれません。常々自分を振り返っているのですが、思わぬ発見でした。
良いとも悪いとも言い難いのですが、このキャラで皆と仲良くできていたんだから、これで良かったんだ~、と自分を納得させる今日この頃です。
食について
私は心の在り方を大切にすると共に、食の在り方も大切なのではないかと思っています
と言っても、こうあらねばならない、と言うようなことは嫌なので、適度な思いで食に向きあっています。
その中でも私が少しだけ重視しているのが「水」です(これは食ではないと言われそうですね)。日本の水道水は世界的に見ても基準が高いと言えるようです。
しかしそれでも塩素消毒をする際に、水中の有機物と化学反応をおこして発生する物質があったり、配送管、給水管などを通過して我が家まで来るわけです。
そんなことを考えたりしていると、「ムム‥」と私は思うのです。
水は体の中を駆け巡る一番重要なものです。だとしたら、もっと安心できる水にしたい、という思いから「蒸留水器」なるものを購入して使っています。蒸留した後の蒸留水器の底には、やはり残留物が少しですがあります。
使い始めて12、3年経ちますが、体の調子は良いように思います。
続いて肉についてですが、私はあまり肉は食べません。決してウ”ィーガンではありません、がほとんど食べなくなりました。たまにお誘いをうけて食事に行くのですが、その時に食べる肉が驚くほどおいしくないのです。
皆は「美味しい~」と一様に言うのですが、私は心の中で「うっそ~」と言ってしまいます。味覚が変わってしまったようです。
じゃあ普段は何を食べているんだ、と言われそうですが、そんなに大したものを食べているわけではありません。
穀類、発酵食品、酵素が多い食品等を主軸に、後は適当に作っています。
いわゆる粗食になります。でも、これが私にとって「美味しい」のです。
過去に知人からスナップエンドウをおすそ分けしてもらい、私は塩茹でしてそのままいただいたのですが、とっても甘くて感動したのです、が知人は
「不味かった!」というわけです。
知人は料理上手を自負している人です。この味覚の差はいったい何だろう、彼女は普段からアルコールを摂っているから、不味いと感じたのでしょうか?体調により、味覚が変わることもあります。
食によっても、人の健康は左右されます。私は誰にも迷惑をかけずに、死ぬ寸前まで元気でいることができれば、と願っています。
最後に、私は自分の味覚、感覚が正しいと言っているわけではありません。人は皆それぞれの感覚で生きています。
だからそれで間違っていない、それでいいのだ~、と思っています。
ソウルメイトについて
私には何人かのソウルメイトがいます。
そのうちの一人が別れた夫です。もちろん、最初からソウルメイトだと分かって結婚したわけではありません。今になって思えば、巡り合わされたような出会いだったのだと思います。本当のことを言えば、あまり思い出したくはないのですが、書くことも一つの修行だと思い、書くに至りました。
私と別れた夫・A(とします)との出会いから話します。
私には二つ違いの姉がいます。姉は四年制の大学を、私は短期大学を出たのですが、そうなると二人同時に卒業で、就職になります。その時の就活の話です。
姉は一生懸命就活に励んでいたのですが、私はまるで遠い先のような、就職なんて人ごとのような感覚でした。
姉は就職先の候補を二つに絞り、履歴書を送りました。そのうちの一つが第一志望で、先に決まってしまったのです。すると第二志望のところを履歴書を送ってしまったので、どうするかという話になり、代わりに私に「行け」と言うのです。変な話です。
普通だったら「嫌だ」と断ると思うのですが、私はなんのこだわりもなかったので、なぜか履歴書を送り、そこでの就職が決まってしまったのです。まるで操り人形です。
その企業に入社し、私の机の向かい側に座っていたのがソウルメイトのAでした。
もしも私が姉の話に乗らずに、姉が第二志望のこの企業に入社していれば、Aと私は会うことはなかったのです。不思議なことですが、なるべくしてなった、ような感じです。
ほどなく、私とAは結婚するのですが、幸せな結婚ではありませんでした。二十数年後には別れることになります。
ソウルメイトなのに別れるの?と思われる方もいるのではないかと思います。
これはお互いに、そう決めて生まれてきたためです。それぞれが何かを学び、気づきを得るための出会いです。気づきがあれば別れなかったかも知れません。が、それぞれの次の段階へ進むための別れでもあります。これで良かったと思っています。
私とAは過去世では、大親友であったことが何度かあったようです。
今世は不仲の人生です。ソウルメイトであることが分かった時、ショックを受けました。しかも、魂の故郷が同じなのです。
この肉体を脱ぎ捨てて、同じ魂の故郷に帰ることができれば
「いやぁ~、ご苦労さんやったね~。お互い何とか生き切ったね、ありがとね~」
とねぎらうことがお互いにできればいいのですが…。
死生観
「明日が当たり前に来るわけではない」
と言われた女性法医学者がおられます。
この方は死因究明のエキスパートで、司法解剖を主にされています。
医学生の時の解剖の実習で、「人はいつ死ぬんだろう、人が死ぬと言うのはどういうことなんだろう」と考えるようになり、死と言うものを突き詰めて考えてみたいと思ったのが、法医学に関心を持ったきっかけだそうです。
また別に、虐待を受けた子供や、DVを受けた人を診察をして、保護についてのアドバイスをするのも法医学の仕事です。解剖をすることによって、生きている人に還元したいという思いで仕事を続けられているそうです。
そんな仕事をされているからこその死生観から出た言葉が「明日が当たり前に来るわけではない」です。
今日、普通に元気でベッドに入っても、翌日には二度と目覚めないかもしれない
朝、笑顔でいってらっしゃいをしたのに、もう二度とその笑顔は見られなくなるかもしれない。いつ、どんな状況で死ぬのか。
そんな時に後悔をしないように、今日、この今を大切に生きよう、というわけです。
今生きていられることが、息を吸うこと、吐くことができることが、当たり前のようで当たり前ではないのかも知れません。いろんな要素が重なって存在する自分です。
両親、先祖がいなければこの自分は存在しません。学びをするために、この地球に生を受けられたのは奇跡だと思います。
よく感謝、感謝と人は言います。が一体何に感謝なのか?
それは自分に関わるってくれる人、生きとし生けるもの、はもとより
目には見えない何か
が自分を生かしてくれているから感謝なんだろうな、と思います。
だからいつ死んでも後悔のないように、今を精一杯生きて、後はその「見えない何か」におまかせの気持ちでいることが、この世を生きやすくする方法なのではないかと思います。
その見えない何かは、その人に進むべき道を、知らず知らずに歩ませてくれています。学びや気づきがあれば、また次のステップへと導いてくれています。私たちは、その見えない何かの大きな愛の中で、辛くて厳しい体験をさせてもらっているわけです。
たとえ今が辛くても、思いっきり生き抜きましょう。
その女性法医学者は、遊びをするにも、何をするにも全力で臨んでいるように見えます
セドナ 心の旅 ②
前回のセドナの話の続きです。
セドナには沢山のお店があります。パワーストーンやエッセンスオイル専門の店もあり、中にはワークショップと言って、オーラの写真を撮ってもらえるお店もありました。そのどれにも私たちは行き、中でも興味深かったのはオーラの写真を撮るワークショップでした。
皆それぞれにオーラの写真を撮ってもらい、写真ができたら個別にオーラについての説明を受けたり、その人にフォーカスして視えたことを教えてもらうのです。
私がその時にもらったオーラの写真は、顔がうっすらと写っているのですが、体の周囲や頭上高くにブルーのオーラと、左側に紫色のオーラの中に白く光る球状のものが二個写っていました。その球状に光るものは二人の天使だと言うことです。私は全く実感がなく、へえ~っ、と思ったぐらいでした。
しかし次の日に、私が天使を実感したできごとがありました。
皆で赤い岩山の所まで行き、岩肌に体を横たえて瞑想をした時の事です。
自分を問いながら、いろいろ会話をした瞑想でした。
瞑想を終え目を開けたとき、目に幕が張ったような、小さなたくさんの粒子のようなものが見えました( 後にそれがプラーナだと言うことを知るのですが)。そして右目の真ん中に一本の線の「I」の字のようなものがあらわれ、すぐにそれが左右に分かれて飛んで行き、消えてしまったのです。
その時私は、それらが二人の天使だと直感したのです。
天使が私に、そばにいることを教え、支えていてくれていたんだと後々思うのですが、その時の私はそんなことを思う余地もなく、ただひたすら現状に、どよ~んとしていました。乗り越えるべき壁があることに気がつくこともなく、皆の愛に気づくこともなく。
人は辛いことを経験して、初めて気づきを得るんですね。私はこのセドナの旅で残念ながら、まだ気づきを得ることはできませんでした。
ただ、このセドナと言う土地はやはり不思議な、エネルギーの高い場所だと言うことがわかりました。レッドロックカントリーと呼ばれる岩岩は、よく見るとクリスタルが沢山含まれています。地底深く巨大なクリスタルがあるとも言われています。
そんな場所ですから、癒されたり、不思議なことが起こるわけですね。
また機会があれば、行って見たいものです、その時は成長した自分として‥。
セドナ 心の旅
以前に天使の存在についてお話をした続きです。
十数年前に、知人から、私にセドナ行きのお話をいただいた時の事です。そもそもセドナのことすら知らなかった私に、一緒に行かない?と言われても、自分の中ではその時の現状を考えて、まず不可能だと思っていました。が、気持ちが「行きたい」気持ちに徐々に変わっていき、現状を克服し可能にしてしまったのです。
セドナは、ここもまた世界屈指のパワースポットです。アメリカのアリゾナ州にあり、少し足を延ばせばあの有名なグランドキャニオンがあります。
総勢七人の旅でしたが、私にとっては辛い旅となるのでした。自分直しの旅です。
セドナには、行って見るべき場所がいろいろあります。
その一つに「マザーズ・ケイブ」と言う母なる大地の子宮と呼ばれる、ネィティブアメリカンの祈りの場所があります。現地の人にもあまり知られていない所です。この中にいるだけで気持ちが穏やかになれるそうです。そうです、と言うのは実は私たち一行はたどり着けなかったのです。
行けども行けどもたどり着かないのです。結局引き返してしまうのですが、リーダーとなる人が言うには「この中の誰かが来てはいけない、呼ばれていない」らしいのです。その人のエネルギー的なものが関係するのでしょうか。
もしかして私?と不安に思ったのですが、後々聞かされるのですが、別のメンバーだったようです。
私が不安に思った訳は、この旅の道中で、私の心の問題が露呈しつつあったのです。
心を開いていない、という問題です。みんな真っすぐ斬りかかって来るので、私はどう対処すればいいかもわからず、ただ斬られっぱなしでした。そんな心を抱えての旅でしたから、ずーっと落ち込んだままでした。
後からよくよく考えてみれば、神聖な場所に行くと言うことは、その人にとって何かがあるから呼ばれたんだな、と言うことが理解できます。もちろん他のメンバーもそれぞれの理由があって、呼ばれたのだと思います。中には先述したように、呼ばれていない人もいるようですが。
長くなるので、続きは次回に述べたいと思います。